リーガルアーカイブス古き良き
モノづくりが復活
明治に始まる日本の靴づくりは、軍需産業の一つとして技術の向上、生産の拡大がなされた。
先の大戦後、焼け後の混乱期を残ったミシンと技術で乗り切り、
往年のモノづくりは民間需要に向けられ息を吹き返した。
2014年発行 「日本の革 7号」より
日本の靴の発展は軍需産業と軌を一にしている。
まだ国民の祝日に昇格する気配はないが、3月15日は「靴の日」だ。1870年のその日、日本で第一号の靴工場、伊勢勝造靴場が東京の築地入舟町に開設された。仕掛人は陸軍の創始者、大村益次郎。大村の命を受けて現場で奔走したのが西村勝三なる人物である。礎を築いた西村は靴産業の父として歴史に名を残すことになる。
大村が目をつけたもう一人が、弾直樹。関東一円12カ国の皮革産業の一切を幕府から任されていた男で彼も同年、王子滝野川に皮革製造伝習および軍靴製造伝習授業御用製造所を開設、2年後の1872年には浅草で靴工場を始動する。浅草はご存じのように日本が誇る一大産地だが、つまり、その種を蒔いたのが弾というわけである。
ほぼ時を同じくして、大阪にも工場が開設された。藤田伝三郎の製革工場(1876年)と大倉組皮革製造所(1879年)だ。前者は藤田観光の母体である藤田財閥の、後者は大倉財閥の創始者である。
伊勢勝造靴場に製革工場を合併した大倉組皮革製造所、弾の流れを汲む東京製皮などが加わり、1902年に誕生したのが日本製靴、のちのリーガルコーポレーションである。時折しも日露戦争前夜で、日本製靴はドイツから製靴機械のアリアンズを大量に買い付け、以降、陸軍の軍靴を一括受注することに。
いまも残るもう一方の雄が、大塚製靴。1872年、大塚岩二郎が弱冠13歳にして芝露月町に開設した大塚商店がそのルーツである。宮内庁の高官の靴を手がけ、これが高く評価されたことから1882年に宮内庁御用達に指定される。こちらは海軍の靴を受け持つようになった。
敗戦は庶民の時代の幕開けを意味した。日本製靴はさっそく設備への投資を進めつつ、イギリスの紳士靴の聖地、ノーサンプトンと靴の産業革命をけん引したアメリカに人材を送り込み、来たる機械生産の時代に向けて足場固めを行う。
そうして業界は、東京オリンピックが行われた1964年を境に、本格的に機械生産へとシフトするのである。
業界はほどなく産地移転を選択する。これにだめを押したのが1986年に施行されたTQ制だった。それまで足数制限があった輸入が、関税さえ払えば何足仕入れてもよい、という取り決めになる。
空洞化する生産背景に一筋の光明がみえたのが1990年前後。若者のあいだで手製靴職人を志す、ブームと呼んで差し支えないムーブメントがおきる。一言でいってしまえば、20世紀のビジネスモデルの限界を肌で感じたのが昔ながらの手に職をつける道を選んだ理由だった。それは生き存えてきた手製靴職人がそろそろ引退を考えはじめたころと軸を一としており、まさにギリギリの継承だった。
現在は大手靴メーカーもこの流れをきちんと受けとめ、彼らを戦力に加えることで、ひと手間かけたワンランク上のコレクションが続々登場している。
2010年に開館したリーガルアーカイブス。
リーガル1号木型と1号靴。
1915年頃の工場風景。軍人が目を光らせている。リーガルアーカイブスには靴のみならず、こういった資料も。
特定の靴に適用される靴のJIS規格。そのベースをつくったのが日本製靴、すなわちリーガルコーポレーションである。写真の冊子はその当時の採寸表。
シンガー社の1915年製長靴用製甲ミシン。そこに手描きされたB17-5という数字は17列の5台目を意味する。当時はそれだけのミシンを24時間3交代制でフル稼働させていたという。